Sep 01, 2009
アパート経営に挑戦する日
アパート経営に関する本を読んでみた。誰もが極端な場合が多く、非常に役立つことはなかった。おそらく、本の著者も本が売られてスーツがあればいいと考えているのではないだろうか。アパート経営の会社員が片手間でできるわけでもないです。しかし、いつかはマンション経営に挑戦してみたい。中古ワンルームの不動産投資をする場合は、都心の中古ワンルームマンションを購入することをお勧めします。都心を選ぶという、人口が増加している可能性が高いからだ。郊外の中古ワンルームマンションは比較的収益率が高いのだが、空室になるリスクが高い。その郊外では不動産投資は慎重にする。
秋田市の竿燈(かんとう)まつりは最終日の6日、竿燈妙技会の決勝があり、各部門の優勝者が決まった。まつりは「夜竿燈」で最高潮に。多くの観光客でにぎわった。【坂本太郎】
妙技会の優勝団体・優勝者は次の通り。
▽大若団体規定=川尻本町B▽大若団体自由=八日町▽大若個人規定=泉田恒光さん(柳町)▽囃子方団体規定=上米町一丁目▽小若団体規定=登町▽小若囃子方団体自由=共和町
8月7日朝刊
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青森県で処理された秋田県産の牛肉から、1キロあたり781ベクレルの放射性セシウムが検出されたことが分かった。青森県が5日公表した。国の暫定規制値(同500ベクレル)を上回る放射性セシウムが検出された秋田県産牛は2頭目。青森で処理された牛肉は全量保管され、流通していない。
青森県によると、同県の食肉処理業者が簡易検査器で自主的に検査したところ、規制値を超えていたため同県に連絡。精密検査の結果、暫定規制値を超える放射性セシウムが検出された。
秋田県畜産振興課はこの牛肉を出荷した県内の農家に出荷自粛を要請した。この農家は以前、県の聞き取り調査に対し、「宮城県産の稲わらを5月に購入したが、昨年11月に収穫して屋内で保管していたと聞いている」と回答。そのため県は福島第1原発事故の影響は無いと判断していた。
しかし、屋内保管していたという稲わらを与えられた肉牛から放射性物質が検出されたため、県は6日、宮城県産を含め県外産の稲わらを購入したという農家約50戸に職員を派遣。簡易検査器で稲わらの測定を始めた。
また、県畜産振興課と秋田市保健所は6日、宮城県産の稲わらを与えられ大阪府に出荷された2頭の県産牛について、追跡調査の結果、大阪で肉が保管されていることが分かり、検査したところ、放射性セシウムの含有量はいずれも国の暫定規制値以下だったと発表した。【坂本太郎】
8月7日朝刊
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夏の夜空を彩る伝統行事「役七夕」が6日、能代市であった。高さ8メートルの城郭灯ろう4基が威勢のよい掛け声とともに、目抜き通りを勇壮に練り歩いた。
旧町ごとに分かれた「5丁組」が輪番制で運行しており、今年の当番は大町組。東日本大震災の被災地にエールをと、郷愁を誘う笛や太鼓のはやしを響かせ、「ワッセイ、ワッセイ」の掛け声で男衆に引かれた灯ろうが市街地を運行、沿道に詰めかけた観客を沸かせた。7日は、灯ろうの上にあるシャチを燃やし、米代川に流すシャチ流しが行われる。【田村彦志】
8月7日朝刊
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◇自然と共存考える時
「水をください、水をくださいと言って、大勢の被爆者が川を目指してさまようんだ。この世のものとは思えながった」
田村稻男(いなお)さん(75)=大館市=が子供の頃、1914(大正3)年生まれの父、堅一さんは、田んぼからの帰り道によく広島で被爆した体験を語った。
堅一さんは爆心地から約1・5キロの広島市中広町にあった仮兵舎で、窓に背を向けている時に被爆した。午前8時15分、せん光に包まれ、気がつくと辺りは真っ暗。動こうとしたが、建物の下敷きになっていた。「助けてくれ」と叫ぶと、誰かが手を引っ張ってくれた。その手は生温かく、ぬるぬるしていた。やけどで皮膚がずるりとむけていた。
「生き地獄を見た」「戦争は勝っても負けてもいいことは一つもない」。物静かな堅一さんだったが戦争と原爆ははっきり否定した。年を取ると体のあちこちが痛いと訴えるようになったが、被爆との因果関係は不明のまま、89年に亡くなった。
■ ■
田村さんは10歳で終戦を迎えた。堅一さんは鉄道兵機関士として43年に入隊。45年8月はビルマ(現ミャンマー)派遣をひかえ、広島で待機しているところだった。
広島が原爆で全滅したというニュースは、終戦のころには秋田にも伝わっていた。しかし、広島にいた青森の知人が、秋田まで来て「(堅一さんは)生きている。よくなって帰ってくる」と教えてくれた。生死を知るすべもない状況の下、家族は朗報にすがりついた。田村さんも「父さんはきっと元気になって帰ってくる」と信じて待ち続けた。
その数週間後、堅一さんは帰郷した。毛布を5枚持っていた。「無事に帰ってきた」と家族全員で喜んだ。
背中にはあざのように色の付いた、やけどの痕があった。あざはその後、消えることはなかった。
■ ■
地域には年に2週間ほど湯治に通う習慣があった。農作業の疲れをとり、歌や踊りを楽しんで心身を癒やした。堅一さんも50代のころの手記で「湯治に通うなどして8カ月で歩けるようになった」と記している。だが「今でも体のあちこちの痛みはなくならない」ともある。
堅一さんを見てきたため、田村さんは後遺症に苦しむ被爆者にはずっと心を痛めてきたが、福島第1原発の事故で放射能への疑念はさらに強まった。「原爆も原発事故も、大気、土、水、人体が放射能に汚染され、取り返しのつかない状態になる。原発はやめるべきだ」と強調する。「発想を根本から変えて、自然と共存するあり方を考えなければ」と話す。
田村さんは高校教諭を定年退職後、化学肥料や農薬を使わない野菜作りに取り組んでいる。「健康で生きていれば、それ以上幸せなことはない」。畑では丹精したトマトやキュウリが実っていた。【小林洋子】=つづく
8月7日朝刊
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